第6期 激動

文:masahide 2012年~


バンドに激震が走る。

 

オリジナルメンバーであるギターのKが惜しまれつつ脱退を表明。

これまでの彼の功績は余りにも大きすぎた。

メインコンポーザーとして、オリジナルメンバーとして、リーダーの補佐役として、

若手の良き理解者として…

 

そしてKeyboardKanaも同時期に脱退を表明。

卒業ライブでの華やかなステージングが鮮明に思い出される。

 

だが、ここで立ち止まる訳にはいかない。

俺たちの演奏を待っていてくれる人が一人でもいる限り。

 

メンバー探しに必死になっていたのだがなかなか難航する。

クラシックピアノしか弾けません。では務まらないからだ。

バンドに彩りを添えるにあたり非常に重要なパートがKeyboardなのだ。

 

Matterhorn Bobsleds等で親交のあったOZBONESのメンバーと同会場にてイベントの打ち上げをしている最中に俺はまたも暴挙に打って出るのであった。

俺は焦りもあってか、どうしても近づきたい人間がいたのだ。

対バンのOZBONESKeyboardである。

彼とは酒の力もあってか意気投合し俺は完全に調子に乗っていた。

しかしこれは本来は禁じ手。絶対にやってはならない「引き抜き行為」だったのだ。

しかし誠意が伝わったのか、はたまた酔いもあってか。

彼はスタジオに遊びに来てくれる事を約束してくれた。

この場をお借りしてOZBONESの皆様にはお詫びの気持を記したい。

 

 

彼の名はWats

 

 

彼は漢なのだ。彼のプレイは流麗。鍵盤を操る姿が本当に美しいのだ。

和声理論にも長けた彼の加入でバンドに「華」「男の色気」が出たのは過言では

ないであろう。ファジーな部分を機敏に修正してくれた功労者である。

 

ここで装いを新たにしようと、長年の夢であった「揃いのスーツ」を購入するに至る。

シルバーのスーツだ。

とっておきの音楽祭にてお披露目となったがなんだか照れくさい感じが新鮮だったのを覚えている。

まるで中学校の制服に初めて袖を通したような感覚。

10代特有の甘酸っぱい記憶と共に甦ってきたのは俺だけではないであろう。

 

Kの後任ギタリストだが、当時を振り返ると探す暇がなかったと記憶している。

それはライブの予定があったからだ。

そこで俺たちは手っ取り早く親交のある「812」のリーダーを務める石井峰穂氏を

サポートメンバーに迎え、ペースを落とさずに精力的に活動を続けるのだ。

 

その活動の甲斐あってか、ジャズフェスのフィナーレ出演を果たす。

この大舞台は仙台のアマチュアバンドの一つの目標となるステージとも言えよう。

2回目の出演オファーの知らせにメンバーが歓喜した。

 

石井氏からジャズフェスで一旦サポートに区切りをつけたいとの申し出があったため、そのように考えていたが珍事である。

鳴子音楽祭の「宵の部」への出演オファーが突然届くのだ。

この「宵の部」は一般応募からの参加ではなく、実行委員会から直接オファーが来た

バンドだけが出演出来る名誉ある舞台。アフロヘアで有名なあのバンドや、リーゼントで有名なあのバンドも出演者として名を連ねていた。

石井氏にも快諾を得、10月まで活動を手伝ってくれる事となった。

 

さてギタリスト。そろそろ動き始めようという事で今回は公募に踏み切った。

理由は自称も含めギタリストは星の数ほどいると言っても過言ではないだろう。

その中でやる気に溢れた良い人材を集めてオーディションをしようという魂胆だ。

某有名なバンドメン募サイトにて告知をしたところ複数の立候補があった。

やはりギタリストは多いのである。他のパートとはプレイヤー人口の桁が違うのだ。

 

その中で非常に積極的且つ自信とやる気に満ち溢れた1人のギタリストの文章に心奪われた。

 

 

彼の名はIori

 

 

オリジナル曲を聞いて欲しいとmailを送ってくれたのだ。

また、その曲がバンドにマッチする予感がした。

その曲は難航しつつも完成したBanditsの元ネタだったのである。

 

お察しの通りでオーディションは開催される事はなかった。彼はすんなりとメンバーに溶け込み、

人一倍努力を重ねていく中で、メンバーの信頼を勝ち取り俺たちと共に進む事となったのである。

他の立候補者には丁重にお断りの旨を伝えるのである。

 

まずは器用なギタリスト。クリアである。

 

しかし、この頃を境にTrumpetkohが元々ジャズをやりたいという事があり、

自分のスタイルを模索し始める。結果812に参加。

そして翌年自らの音楽性を信じそのまま惜しまれつつ脱退となる。

 

先の記事でも書いてあるが、メンバーがなかなか固定出来ない時間が続くのであった。

 

この結果、表舞台からはやや遠ざかり、スタジオリハーサルを重ねていく

地味な路線に変更したのもこの頃からである。

 

決してサボっていた訳ではない。

表舞台を疎ましく思っていた訳でもない。

こういう地道な活動から産み出される音楽の奇跡に夢を馳せていたのだ。

スタジオリハーサルでの活気は皆さんの想像を遥かに越えるエネルギーで満ち溢れている。

新しいフレーズ、新しいリズムに果敢に挑戦を続け、現在に至っている。

この頃の活動にも誇りを持てるし自慢の念さえ湧き出てくるのだ。

 

我らはさらなる高みを目指し、1人で100歩ではなく、バンドとして一歩前進するという観点からである事はもはや言うまでもないだろう。